生産性と賃金のあれこれ:追記

前回のエントリーの最初で、お二方の議論がすれ違っている、と書いたのだが、あまり議論の中身には立ち入らなかった。限界生産性の話を書くので精一杯だったのと同時に、あまり議論に首を突っ込むと取って食われそうで怖くて避けていたのだが、どうやら議論も収束したようなのでもう少し詳しく議論の中身を見てみたい。

平均生産性と賃金格差

まず、発端になった山形氏のエントリーなのだが、『所得水準は、社会の平均的な〜』という小見出しのところに書いてあるように、「ある産業で生産性が上昇すると、彼らの賃金が上昇し、消費も増えるので、その結果他の産業でも賃金が上がる」という理屈が肝になっている。この際、産業間の労働者の移動(転職)が全く考慮されていない点が特徴だ。これを前回の数式で表すと、

A_b f^\prime(L_b) = \frac{w_b}{p_b}

まず床屋(b)*1の生産性A_bが上昇する。労働力の移動は起こらないのでL_bは変わらず、よってf^\prime(L_b)も変化しない。こうして左辺が増加するので、右辺の実質賃金も増加することになる。このとき、生産性の向上に伴って床屋の生産量は増えているので、床屋の価格p_bは低下し*2、床屋の賃金w_bは恐らく上昇する。


前回書いたとおり、労働者にとっての実質賃金(実質所得)は「その賃金でどれだけの消費が出来るか」を示す\frac{w_c}{\frac{1}{2}p_b + \frac{1}{2}p_c(分母はいわゆる消費者物価=平均価格)で決まる。よって、床屋の生産性上昇は床屋の価格p_bの低下を通じて、コーヒー屋の実質賃金を上昇させる。


同時に、床屋の所得が増えたことでコーヒーに対する需要が増大する。ところが、コーヒーの生産量は変化しないので(L_cが変わらないため)、需要の増加はコーヒー価格p_cの上昇につながる。*3すると、

A_c f^\prime(L_c) = \frac{w_c}{p_c}

の式から、コーヒー屋の賃金w_cも上昇することになる。*4


このように、山形氏の主張は決して間違っているわけではない。ある産業の生産性向上が他産業の賃金に影響を及ぼすことはありうる。では山形氏の議論には問題がないか、というとそういうわけではない。問題点は3つ。


まず、平均的・絶対的生産性とは何かという定義を明確にしていないこと。筆者には「絶対的な生産性」が何を意味しているのか未だに理解できない。後で述べるようにこの点が議論を錯綜させた一因になっているようにも見えるのだが、筆者の知る限り最後までお二方の間で言葉の定義についてちゃんとした確認がされなかったのは残念な話である。


もうひとつは、何の説明もなく産業間の労働力の移動(転職)がないものと仮定していること。国内での労働力の移動が比較的自由に行われ、一方で国境を越えた労働力の移動は困難であると考えれば、日本のサービス業の賃金が高いことは簡単に説明できる(前回のエントリーで書いたとおり)。上で説明したとおり「生産性の高い企業の所得が増える→他産業の売り上げが増える→他産業の賃金増」という関係は「起こり得る」というだけのことで、前回説明した「労働力の移動が自由なら賃金は等しくなる」という関係に比べて著しく弱い。直感的にも理論的にも、労働力の移動を無視して議論をする理由は見当たらない。


最後に、賃金に影響を与える生産性以外の要素があることを説明しながら、何の説明もなく「生産性の向上が(所得や価格の変化を通じて)他産業の賃金に与える影響のほうが大きい」と言ってしまっていること。「メカニズムが存在する」ことと、「そのメカニズムこそが日本のサービス業の賃金が高い主な理由である」こととは全く違う問題であり、それなりに慎重な説明が求められる(そもそも、もし氏の主張するとおり、製造業の生産性向上が所得増を通じて他産業に伝播する効果が大きいのなら、製造業の賃金は他産業に比べてずっと高くなければおかしい)。もちろん、自説としてそのようなアイデアを唱えるのは構わないのだが、それがあたかも経済学における定説であるかのように語るのは余り感心しない。

限界生産力と賃金の関係

さて、一方で池田氏の反論についてなのだが、こちらも反論としてはあまり適切では無いように思われる。前回説明したとおり、限界生産力(限界生産性)=実質賃金(限界生産力と限界生産性は同じものだが、前回説明したとおり一般的な用語としての生産性とは全く違う概念である。混同を避けるため、以下では限界生産力で統一する。)、という関係は「人手不足だと賃金が上がる」という関係をあらわしたものだ(数式が苦手な方は、こちらのエントリーを読まれると良い)。つまり、「賃金は平均的な生産性で決まるのではない。賃金は限界生産力と一致するのだ」という氏の主張を意地悪く書き換えると、「賃金は平均的な生産性で決まるのではない。賃金は人手不足のときに上がり、人が余っていれば下がるのだ」ということになる。文章として何かおかしいということがお分かりいただけるだろうか。


もう少し詳しく書いてみる。前回と同じく、床屋の生産性A_bが急に上昇したとしよう。そうすると床屋は人手不足になるので賃金が上がり、高い賃金を求めてコーヒー屋から床屋に転職する人が出てくる。そうすると床屋の雇用者数L_bは増加し、コーヒー屋の雇用者数L_cは減少する。これによって、床屋の限界生産力は低下し、逆にコーヒー屋の限界生産力は増加する。上の式から、これは床屋の実質賃金が低下し、一方でコーヒー屋の実質賃金が上がることを意味する。このとき、コーヒーの生産量は減少しているのでコーヒーの価格p_cは上昇する。*5 よって、コーヒー屋の賃金w_bは上昇する。


つまり、平均生産性を\frac{A_b+A_c}{2}と定義するなら、「平均生産性が上昇すると(生産性があがっていない産業の)賃金が上がる」ということは、限界生産力=実質賃金、という関係とは矛盾しないのだ。「限界生産力と賃金は一致する」という理由で山形氏の議論に反論するのは不適切であるということがこれでわかる。前回も書いたとおり、賃金は需要と供給で決まる。限界生産力=賃金、という関係は労働需要がどのように決まるかを示す式に過ぎず、これだけでは賃金は決まらないのである。逆に言えば、どんな賃金水準であろうと「限界生産力=賃金」の式で説明することは可能だ、ということでもある。


ちなみに、ここでいう平均生産性には別の定義がある。限界生産力に対応する平均生産力とでもいうべきもので、\frac{Af(L)}{L}で定義される。もし平均生産力=賃金、という人がいるならそれは問答無用で間違っている。もしかしたらその辺りがお二方のすれ違いの始まりだったのかもしれない。

脚注

*1:前回は大文字Bを使ったが、見づらかったので小文字に変更する

*2:厳密には、この価格は消費者の需要関数と企業の供給関数の交点で決まり、必ずしもp_bが低下するとは限らない。ここでは簡略化のためにそう仮定しておく。

*3:正確には、コーヒーの価格が床屋の価格よりも相対的に高くなる、である。床屋の価格が十分に下がるなら、必ずしもコーヒーの価格が上がる必要はない。この手のモデルでは相対価格が決定されるだけなので、実際の価格がどう動くかは分からないのだ。同じことが実質賃金にもいえる(あれは賃金の相対価格なのである)。だから、『床屋の賃金は恐らく上昇する』という微妙な表現になっている。

*4:つまり、p_cが上がらない場合は、コーヒー屋の賃金w_cは変化しない。われわれは、ある産業の生産性の向上が他産業の実質所得\frac{w_c}{\frac{1}{2}p_b + \frac{1}{2}p_cに影響を与えることは断言できるが、(名目)賃金w_cが上昇するとは必ずしも言えないのである。ただし、比較的多くのケースでp_cは上昇すると思うが。

*5:厳密には、床屋の価格が大暴落してコーヒーの価格もわずかに下がる、という可能性もある。この場合、コーヒー屋の賃金が上がる代わりに床屋の賃金が下がる。どちらにせよ、床屋とコーヒー屋の賃金は必ず一致するのだが、賃金が上がるかどうかは厳密には分からないのである。理論上は、生産性が向上した結果全ての産業の賃金が下がるということすらあり得る。ただし、この場合物価も同時に低下し、かつ為替レートも大幅に円高になるため、実質的には日本人の生活にはなんら変化はない。つまり、(名目)賃金という表面上の価値がどうなるかを考えることにはそれほど意味がない、とも言える。