ハンク・ポールソンと議会

7000億ドルを破綻行に注ぎ込む「ポールソン・プラン」が否決されてしまいました。直前まで結構楽観的なニュースが流れていたので、そのまま何とかなるのかなと思っていましたが。


まぁ、今頃マスメディアでもブログでも「否決をどう見るか」「今後の経済の見通しは」みたいなネタは山ほど書かれているのでしょうし、こんな滅多に更新しないブログで時事ネタを扱ってもしょうがありません。それよりも、せっかく英語関連のエントリーを書き始めたことですし、ポールソンの「言葉」について書かれた記事を紹介したいと思います。


http://www.ft.com/cms/s/0/d6dd1736-8bed-11dd-8a4c-0000779fd18c.html Man in the News: Hank Paulson (FT Sep. 26th, 2008)

His approach in the crisis has been that of a hard-driving chief executive, not a politician. This was no time for bureaucratic niceties; it was a moment of peril. He needed authority to spend $700bn in whatever way he saw fit, buying different financial assets to stabilise the system. Mr Paulson sent the request to Congress in a two-and-a-half page legislative proposal.

The brevity was not intended as an insult to Congress. But it had that effect, smacking of the elite closed circle deal making of a “Wall Street Master of the Universe” (when not talking to mem­bers of Congress he favours rapid, brusque phonecalls to gather information and shuns e-mail). The draft proposed half-yearly reports and decisions would not be reviewable. “I can only conclude that it is not just our economy that is at risk but our constitution,” said Chris Dodd, chairman of the Senate Banking Committee.

『危機に臨む彼の姿勢は猛烈社長のそれであって、政治家のものではなかった。官僚的なお上品さにつきあっている暇など無い−今は非常時なのだ。システム安定のために、彼が適切と信じるあらゆるやり方で金融資産を購入するための7000億ドル、この支出への議会承認を彼は必要としていた。ポールソン氏は2ページ半の法案のプロポーザルを議会へと送った。

このプロポーザルの簡潔さは、議会を侮辱することを意図していたわけではない。だが結果的にはそうなった。「ウォールストリートの覇者」の閉鎖的な、エリートくさいやり口だ、と。(議会関係者以外と話すとき、彼は電子メールを嫌い、迅速かつ無愛想な電話で情報を集めるやり方を好んだ。)草案には、(公的資金注入の状況について)半年ごとに報告書を提出すること、注入に関する決定は覆らないこと、の2点が盛り込まれていた。「これは経済だけでなく、我々の憲法をもリスクにさらすものだと結論せざるを得ない」と上院銀行委員会委員長のクリス・ドッドはコメントした。』

But Mr Paulson has never been a salesman. That has showed too. One congressional aide said his awkward style had hindered the sale of the rescue plan. “You watch him, he stutters and stops. He’s not eloquent. He has a hard time, the quotes don’t come off well,” the person said. In one case Mr Paulson blurted out that he did not want to be accountable to taxpayers. What he meant was that he regretted having to ask for the bail-out. At another hearing, he stumbled over “everyday needs” (“every nay deed”), he paused. “Sometimes the words don’t – they never do come out that smoothly for me, but it’s been a long couple of days.”

『だが彼はどうあっても営業マンではありえなかった。それは以前から明らかだった。ある議会関係者は、彼の不器用なスタイルが彼の救済策を議会へと売り込む妨げになっていると語った。「彼をみていれば分かるだろう、彼はよくどもるし詰まりもする。彼は能弁な質じゃない。見積もり通りに事が運ばず、彼は苦しんでいる。」ある時、彼は納税者に説明するのはいやだ、と口走った。実のところ、彼が言いたかったのは納税者に負担を要請するのは心苦しい、ということだった。またある時、彼は"everyday needs"と言うべきところを、詰まって"every nay deed"(訳注:無理矢理訳せば、あらゆる証書ではないもの、とか)とやってしまい、彼は固まった。「私は時々言葉がうまく・・・滑らかに出てこないときがある。しかし、長い2日間だった。」』


ポールソン氏にとってネガティブな部分だけを書き出しましたが、記事全体としては「ポールソン氏が歴史に名を残す財務長官であるのはもはや当然であり、後はどのように名を残すかどうかだけが問題だ」という基調で、つまらない揚げ足取りの記事ではありません。


ハンク・ポールソンという人はそのキャリアのほとんどをインベストメントバンカーとして過ごしてきました。顧客も、上司も、部下も、その全てが専門家(しかも、かなり優秀な部類の)であり、決定権をずぶの素人が握っている今回のようなケースは経験になかったのかもしれません。


専門家には一番重要な要旨を用意すれば事は足ります。むしろ、10ページの力作を用意しても無視されますし、50ページともなればむしろ書き手のやる気と能力とを疑われること請け合いです。しかし、素人相手となると事情は変わってきます。訳の分からない様々な政策の一つ一つに、それでも決断を下さなければならない議員にとって、2ページ半の要旨で決断を下せと言うのはやはり受け入れがたいことなのかもしれません。むしろ、結論を下すプロセスこそが重要であり、来るべき選挙で「2ページの紙切れで易々と騙されやがって」と批判されたときに返す言葉もなくなります。


その意味では、この記者が書いているとおり、『政治的な嗅覚がある人であれば、議員と民間の銀行マンを交えた監視委員会の設立を提言しただろう。だが、彼のキャリアは政治的なスキルやカリスマに立脚したものではなく、疲弊を強いる時間を働き抜き、様々な関係や分析に対する洞察にこそ立脚するものだった。』という点は的を射ていたように思います。ここ数ヶ月、「居るべき時期、居るべき場所に、ポールソンとバーナンキというこれ以上はあり得ないという人材を得ることが出来たアメリカは幸運と言うべきか、すごいと言うべきか」などとつらつら考えてきました。しかし、その優秀さこそがこのようなすれ違いを招き、下手をすれば今後の世界の動向をすら左右しかねないのだと考えると、色々と感慨深いものがあります。


まぁ、まだポールソン・プランはご破算になったわけではなく、なんと言ってもオバマ候補はかなり積極的なようですから、日本のように4年も5年もかかる、というような体たらくにはならないのかもしれませんが。まぁ、そのあたりの見通しは他の方にお任せして、私は黙って事態の行く末を見届けたいと思います。

英語って難しいよね(3):"quite"の使い方

ごく最近までquite≒veryだと思って使っていたのだが、たまに話が通じなかったり空気が微妙になったりするのは自覚していた。今日になってその理由をようやく理解したので、忘れないうちに書いておきたい。


quiteの一番単純な使い方は、impossibleやperfect、uniqueといった絶対的(相対的な度合いを意味するものではない、という意味で)な意味合いを持つ単語を強める使い方。completely、absolutelyと同意。


ところが、quiteを度合いを示す形容詞と併せて使う場合、意味が全く変わってくる。原則的には、quiteは肯定文の「度合いを示す形容詞」に付加して、「まあまあ・ある程度(多い・高い)」と言った意味づけをする。形容詞を強める度合いとしては、fairly < quite < rather < pretty の順。(ちなみに、fairlyはto some extent but not very、の意。)


"quite a few"はこの意味で使われる。「a few:多少」が強められて、「結構多い」といったニュアンスに。逆に"quite few"だと、fewは「絶対的に少ない」といった意味合いなので、quite=absolutely となり、きわめて少ない、という意味になる。なお、a+形容詞+名詞の組み合わせにquiteを使う場合は、quite a [形容詞+名詞]となる。This is quite a small house.など。


面倒なのは、形容詞次第でquiteがcompletelyとfairly両方の意味を持つ場合があること。quite easyは「まあまあ簡単」にもなるし、「とても簡単」にもなる。これは文脈と発音で区別する(quiteにアクセントがあれば「まあまあ」、その後の形容詞にアクセントがあれば「とても」になるらしい)。goodやinterestingといった単語でも両方の意味があるので、"your presentation was quite interesting"という表現は使わない方が無難。発音を間違って「まぁまぁ面白かったよ」などと受け取られた日には目も当てられない。


ただし、この使い分けは主にイギリスのもので、アメリカではquite=veryと考えてしまって問題はない模様。アメリカでは、prettyという言葉が「まあまあ fairly」「とても very」の2つの意味を持つので、使う際には注意が必要。


なお、上では「肯定文に限る」と書いたが、否定的な(度合いを示す)形容詞にquiteを使うことも出来る。この場合、"quite difficult" = "a bit difficult"のように、quiteが付くと否定の度合いが弱められる。(quite difficultをvery difficultの意味で使って怪訝な顔をされた理由が今ならよく分かる。)ただし、"really quite difficult"の場合は、"really difficult"が絶対的な形容詞であるとの解釈から、"absolutely difficult"の意味になる。 

  • Is he not doing quite well? = He is doing quite well, isn't he?
  • Is he doing quite well? = He is not doing very well, is he?

ここで"He is no doing quite well"にはならない点に注意。


正直、ここまでややこしいと危なっかしくて使う気になれない(アメリカ人相手なら問題なさそうだが、アメリカ人とイギリス人の区別など出来ないし、prettyとまとめてお蔵入りにしておくのが正解のような気もする)。

英語って難しいよね(2):使い分けの微妙な単語など

  • government

単数複数の扱いが面倒くさい単語。複数国家の政府を指す場合は普通に複数形が使われるが、単に政府・政権を意味する場合は単複同型となる。政府というsingle unitについて言及する場合は単数扱いだが、政府内の様々な部署に注目する場合は複数形になる。"The goverment have not yet decided about which policy to follow"と書くと、政府内に内部対立があるせいで意志決定が遅れているのか、と理解される。

同様の単語に、police, audience, the Bank of Japanなどがある。audienceの場合、観客全体を指す場合は単数、個々の客に注目する場合は複数扱い。

  • last year     calender yearの「昨年」。2008年9月20日現在のlast yearとは、2007年1月1日から2007年12月31日までを指す。
  • the last year   今現在から過去にさかのぼって1年。上の例では、2007年9月20日から08年9月20日まで。

そのため、"at the end of the last year"と書いてしまうと、非常に妙な事になってしまう。文法的に言えば「今日」になりかねない。the third quarter of last year(CY)とは、2007年6月から9月まで。the third quarter of the last yearとは(まず使われないが)、2008年3月から6月まで。

the last yearは現在へとつながる表現のため、現在進行形の文章でよく用いられる。一方、last yearを使う場合は過去形。定冠詞はまた後でちゃんとまとめる予定。

  • make a payment
  • demand a payment

支払を要求するときはrequireではなく、demandを使う。要求払い預金っていう表現はここから来ていると。

  • outstanding credit
  • debt outstanding

debt outstandingという言葉はポピュラーだが、credit outstandingという表現は存在しない。

  • credit   (≠belief)
  • credible  (=believable)
  • creditable (≠credible)

手元のジーニアス英和(大)やリーダーズを引くと、creditはまず信用・信頼・信望を意味し、次に名声・評判・自慢の種、そして信用貸し・支払能力に対する信用度、と続いているのだが、そういう意味で使っていたら先生に思いっきり駄目出しを食らった。英語でcreditとはあくまでも金融関連用語であって、信用貸し・銀行口座の残高がプラスであることなどを意味する。念のためCobuild、ODE、それにOxford Learnersをチェックしてみたのだが、実際金融関連の意味が真っ先に出てくる。ODEでは信望の意味は3番目でようやく出てくるし、Cobuildに至っては金融関連以外の意味は載っていなかった。日本の辞書には少し問題があるのではないだろうか。

ややこしいのは、よく似た単語であるcredible(信用できる)には金融関連の意味は全くないと言うこと。これはbelievableと完全に同義語だ。ちなみに、credibleはcreditからの派生語ではなく、credance(特に根拠のない信頼)からの派生語であるらしい。

更に、似た単語でcreditableがあるが、こちらは「賞賛に値する(ただし、必ずしもoutstandingであるわけではない)」という意味なので、これもcredibleとは全く違う意味になる。

  • in contrast   2つの物・事があり、その2つが何か対照的な性質を備えている場合。 in contrast to(with)...
  • by contrast   1つの物・事の中に、相反する2つの要素が存在する場合。 by contrast with...

とは習ったものの、適当にウェブで検索をかけるとどっちも同じ、と書いてあったり、in contrast, と接続詞っぽく使う場合はby contrastにしてる、とか、in contrast with(to)の後は名詞しか使わない、とあったり、何がなにやら・・・。

  • fence         日本と違い、庭を囲う木製の柵がイメージされる
  • collaborate with ...        ...と協力する
  • collaboration between A and B   AとBの協力
  • put out fire/cigarette      消火する
  • form a (society, plan, friendship, fruit, clouds, hill, etc)    形作られる、存在し始める
  • configure a (machine)     PCの組み立てなどで特によく使われる(受け身が多い)

英語って難しいよね(1):一文の構成

最近どうにも忙しく、本サイトを完全放置しているのですが、ふと思い立ってこちらを更新してみます。


ここ数年、英語で困ることが多くなってきたので英語のライティングコースを受けているのですが、これが色々と新発見の連続で、自分がいかにいい加減な英語を書いてきたかを痛感させられています。ただ、やはり漫然と授業を受けていてもついつい復習をおろそかにしがちです(で、先生に「これ前に教えたじゃん」とつっこまれる、と)。そこで、自分の復習を兼ねて、ブログに「今週の勉強内容」を書き記していくことにしました。


有体に言えば、これは単なる備忘録であって公開する必要は皆無なのですが、私の先生がちょっと面白いのです。「アメリカの英語はEnglishではない」とか、大陸ヨーロッパはcontinentalと呼んでイギリスは大陸ヨーロッパとは違うんだという気概を漲らせていたり。一応本人は「大陸ヨーロッパとイギリスをわざわざ分けるような考え方はpolitically incorrectである」という自覚があるらしく、言った後に若干後悔のそぶりを見せたりするのですが。その辺のネタもおいおい紹介できればいいなと思っています。但し、この項目は原則備忘録ですので、読んでもあまり面白くはないであろうことはお断りしておきます。



本来は文法とか、文章構成とか、ある程度体系立ててエントリーを書いていきたいところなのですが、何といってもこれは備忘録です。大体、また「構成がどうたら」とか自分でハードルを上げても、書くのが面倒くさくなるだけですし。そんなわけで、この一連のエントリーは大体時系列で習ったことを書き連ねていきます。


で、初回から目から鱗だったのが、「英語で一番重要な部分は文末にくる」ということ。昔「日本語は動詞が最後に来るので、最後まで何を言っているのか分からない。その点英語は述語が主語の直後にくるのでより直截的」と習ったような気がするのですが、このイギリス人、なにやら逆のことを言っています。


曰く、「英文の基本はSVOである。文章の中で一番重要な情報はSでもVでもなく、目的語のOだ。つまり、英語では文章を最後まで聞かないと何を言っているか分からないし、よって聞き手・読み手は文末に意識を集中する。だから、文章を書く場合は強調すべき語を文末に配置するのが望ましい。」


例えば、


The gardens, with woods, lakes and sweeping vistas designed by A. Smith, are a particular feature of the castle.


という文章では、とある城の特徴としての庭、という側面が強調されているわけです。もう少し書くと、以下の3文は全てニュアンスが異なります。

  • The J. Becher desined palace, which took 10 years to complete, is a neo-classical building.
  • The neo-classical palace, which took 20 years to complete, was designed by J. Becher.
  • The palace, a neo-classical building designed by J. Becher, took 10 years to complete.


最初の文章の場合、宮殿がネオ・クラシカルであるということが重要なわけで、読み手はこの後の文章で「ネオ・クラシカルな建物とは」という説明なり記述なりがあることを期待します。2番目の文章の場合は、ベッカーという人がデザインした宮殿であるということが強調されているので、当然その後はベッカーについての記述が続くんだよね、と読み手は思います。3番目の文章であれば、10年間の間の苦労話が続くはずです。


ここで予想を裏切る文章が続くと、読み手はストレスを感じます。「読みにくい」と思うわけです(おそらく、なぜそう思うかは必ずしも意識していないのでしょうが)。で、折角文法チェックを重ねたはずのレポートはあえなくゴミ箱行きと相成るわけです。この後も口を酸っぱくして言われたことですが、「文章からあらゆるサプライズを取り除け」ということは、読みやすい英語を書く上でかなり重要なことのようです。文法や単語熟語はちゃんと学んだ日本人が次に躓くのはこういう文章構成なのかもしれませんね。


まぁ、私はそもそも文法や単語熟語が怪しい人間なのですが、その辺りはおいおい書いていこうと思います。

新聞が順調に「殺されて」いる件

こちらの記事を見て、随分前に書いた記事を思い出した。


今週のThe Economist:誰がしんぶん殺したの?


こうして見ると、Economistの予想は大体的を射ていたようで、発行部数の低下、編集部へのコスト削減、インターネット広告への積極的進出、といった流れはここ2年間で全く変わっていない。ただ、この2年でだいぶ「勝ち負け」がはっきりしてきたように見える。


いわゆる「勝ち組」の筆頭はFinancial Times。他の新聞が軒並み発行部数を減らす中でむしろ発行部数を増やした数少ない新聞。しかも値上げを敢行した上での話だから、親会社は笑いが止まらないだろう(開業以来最高の業績を出しているはず)。WSJはその一方で若干部数を減らしている。まぁ、世界の経済紙としては FT > WSJ は評価として定着した感があるので(筆者の主観)、これはしょうがないのかもしれない。


一方ジリ貧なのが多くの一般紙。上の記事でもNYTがネット広告に積極的に乗り出した、という指摘があったが、こちらの記事を見れば分かるとおり、発行部数が急減している以上、当然の戦略だろう。というか、ほかに打つ手がない。上のエントリーで「がんばるくらいじゃどうにもならない」と指摘されてように、詰め将棋で長考しても無意味なのである。将棋台ごとひっくり返すような手を思いつければいいんだろうが、それは天才の仕事だ。


そして、一般紙どころではなくほとんど終了の気配が漂うのが大衆紙。そもそも、スポーツの記事やゴシップなどは確かに需要はあるが、要は適当に記事を書いておけばそれでいい=供給が容易、ということで、記事の付加価値が低い。新聞版の駄菓子のようなものだ。本サイトのエントリーでも書いたが、この分野はフリーペーパーの独擅場と化している。イギリスの大衆紙Sunなどは発売価格を5割引にして、DVDとかも積極的につけて売ってみたり、涙ぐましい経営努力をしているのだが、それでも発行部数は1年で5%以上減。NYT以上に悲惨な結果になってしまった。


やはり、今の体制のまま生き残れるのは記事の質で勝負できる一部の経済紙+一般紙、それとシブステッドのようにネットビジネスに軸足をうまく移した新聞だけではないだろうか。それ以外は、それぞれ右翼系左翼系のNPOやら宗教団体やら政治団体やらに買われて、そこの広報誌として機能していくということになるのかもしれない*1。広報誌といえば聞こえは悪いが、もともと政治的主張を表に出す新聞は結構多いのだから、紙面の内容を大きくいじらずとも適応は可能なのではないかと思う。そして、そういう新聞社のコスト削減の受け皿として、「記事の卸売業者」としての通信社の存在感が増していく、というのが、一番ありそうなシナリオ、と。確かに、どう考えてもあんまり救いのある内容にはなりませんなぁ。

*1:または、The Guardianのスコット・トラストのようなファンドを自前で用意する。資金力のありそうな日本の新聞なら可能かもしれない。この辺りは上のエントリーで書いた。

上限金利規制は本当に失敗したのか?

勢いで新しいブログを作ったものの、正直扱いに困っていたのですが、今後このブログは「独立したエントリーにするほどでもない小ネタを書くブログ」にしていこうと思います。本サイトは「エントリーはそれ単体でも成立するものを書く(他人に対するツッコミだけのエントリーは書かない)」という自分ルールを課しているのですが、そのせいで更新頻度が非常に低下してしまっておりますし。また、今までは「他ブログへの言及」や「反論に対する再反論」はコメント欄を使っていたのですが、必ずしもコメント欄が参照されるとは限りませんし、今後はこちらのブログをもう少し活用していこうと思います。それでも「思ったことを条件反射で書く」ことはしないつもりなので、それほど頻繁には更新されないと思いますが、どうかよろしくお付き合いくださいませ。

闇金融の利用者が増えている…でも、その規模は?

Bewaadさんのブログで「上限金利規制後、闇金融への相談が倍増した」というニュースが紹介されていた。で、これをもって上限金利規制が失敗であったことの証拠とする議論につながっているのだが、これは本当にそうなのだろうか。正直、たかが倍増であれば十分許容範囲内である可能性は高いと思うのだが。

何でそんな話になるかというと、消費者金融闇金融では資金規模がまるで違うからだ。この統計を見ると、消費者向けの貸付は実に21兆円。このうち9割が貸付金利15%以上(2005年時点)。金利20%以上に限っても4分の3、15兆円である。この15兆円が上限金利に引っかかって、利下げをするか貸付を中止するかを迫られたことになる。

で、例えば、このうちの1割が闇金融に流出、ということになると、さすがにその悪影響は無視できない。借り手保護を謳いながら逆効果じゃん、という反論もぐっと説得力を増す。しかし、1割ということは1.5兆円である。いくら闇金融の実態は不明とはいえ、さすがにこの数字は非現実的だ。どうやって資金調達するんだよという話である。闇金ごときがさらりと1兆円の資金を調達できるのなら、投資銀行なんぞいらんのである(サラ金業者の社債発行は投資銀行にとってはドル箱だった。つまり、難易度が高いのでマージンも抜けるのである。筆者自身はファイヤーウォールの向こう側に居たので良く知らないのだが)。

そもそも、闇金融というのは小口貸付が基本である。適当に検索して見つけたこのサイトを見ても、限度額は20万円程度。まぁ、闇金に手を出す阿呆*1に高額を貸し付ける馬鹿は居ない。一方で信販会社辺りの限度額はばらつきはあれどキャッシングで100万から300万(クレジットカードのキャッシングだと50万以下だったと記憶している)。カードのリボルビングの限度額が少なくとも50万から100万。キャッシングとリボルビングをあわせれば闇金の限度額の10倍くらいにはなるだろう。

前記のサイトを見ると20万円を最初から借りることは不可能とあるので、仮に平均貸付額を15万円とすると、15兆円の1%である1500億円に到達するのにすら100万人に貸し付けなければならない。・・・正直これでもまだまだ非現実的に見えるのだが、仮に100歩ゆずってサラ金から闇金に流れた人が全体の1%いたとして、これをもって上限金利規制失敗の証左としてよいのだろうか?

結局のところ、上限金利規制の成否は残りの99%の借り手がどうなったかによって決まる。ごく一部の、「金利水準に関わらず金を借りたい(貸出需要関数が垂直に近い)」人たちの行動だけで政策の是非を語るのは幾らなんでも無理ではないだろうか。

上限金利規制は経済学の理屈で正当化は可能

そして、昔本サイトでも書いたとおり、経済学的に言って残りの99%の借り手がより望ましい状態を達成できている可能性はある。借り手の質について事前情報の非対称性が存在する場合(逆選択)、法律で無理やり上限金利を設定することでより低い金利で多くの(全ての、とは限らない)借り手が借り入れられるようになる*2。借り手にモラルハザードの問題がある場合(限定責任)、上限金利によって理不尽な取立てを抑制できる可能性もある(本サイト参照)。不完全競争を仮定するなら、上限金利を正当化するのは更に簡単になる。

逆に、上限金利規制に反対するには、今の(市場で自由に決定された*3)貸出金利が健全な(=正しくマーケットメカニズムを反映している)水準にあることを主張しなければならない。これは正直無理がある仮定だと思うのだが。市場金利が健全であるためには、通常「その市場で競争原理が十全に働いていること(完全競争)」と「市場参加者が同じ情報を共有していること(完全情報)」の2つが成立している必要がある。トヨタ東芝であれば十分な情報公開もされており、完全情報を仮定してしまっても良いのかもしれないが、一般の消費者金融で完全情報を前提に議論することに意味があるとは思えない。

上限金利で取立てが厳しくなる?

なお、前記のBewaadさんのコメント欄で「上限金利が設定されると『なんとしても回収せねば』という動機が生まれてむしろ取り立ては厳しくなる」可能性が指摘されている。もしこれが本当であれば筆者が本サイトで書いた「上限金利を設定することと理不尽な取立てを規制することは同義」という主張が崩れることになる。だが、理論的に「上限金利が取立てを厳しくする」ことを説明するのは結構難しいのではないだろうか。より厳しい取立てが可能なら、上限金利設定前にも同様の厳しい取立てを行わない理由がないからだ。「取り立てにはコストがかかるので、本当に必要なときしか厳しい取立てはしないのだ」という議論も成立しづらい。例えば、取立ての厳しさ(e)と返済額には正の相関があるが、取立てには一定のコストがかかる場合、貸し手の利潤関数は
\pi = R(e)-ae
となる。ここでは、返済額Rはeに対してconcaveな単調増加関数であり、またaeは取立てのコストを表す線形の関数だと仮定している。一方で、上限金利が設定されて返済額が3分の2になったとすると、
\pi = \frac{2}{3}R(e)-ae
両式をeで微分して最適な取立ての厳しさを導くと、上限金利を設定しないほうが必ず取り立ては厳しくなる。厳しい取立てで得られる利益が前者のほうが大きいのだから当然の話なのだが(グラフを書けばすぐ分かるだろう)。

これでもなお『なんとしても回収せねば』という議論をするには、「人々は特に損失を出すのを嫌がる」という最近流行の(筆者はよく知らないのだが)行動経済学っぽい仮定が必要なのではないだろうか。しかし、ここで考えているのは個人の心理ではなく企業行動である。更に、損失を出してもそれは損金参入して節税対策に使える(更に数年は繰越も出来たはず)ことを考えると、損失に対してそこまで特殊な行動を仮定できるかは疑問な気がする(もちろん、不可能だまでは思わないが)。

貸さぬも親切

取り止めがなくなったが、さすがにこんな闇金融の相談件数だけで上限金利規制の是非について結論を出すのはいかがなものかと思うわけである*4。本サイトでも書いた話だが、腎臓のような無形の担保を差し出さないと借りられない、という人に対しては「誰も貸せないようにする」以上の親切はありえない。というか、そもそも取立てが厳しすぎるのは良くない、という問題意識から始まった議論なのだから、そういう結論になるのは自然ではないだろうか。

借りられないと死んじゃう、という人は生活保護を使ってくれと。それでも闇金に手を出してしまう人は東京湾に浮かんでくれ、というのはさすがに冗談だが、闇金に手を出す人の数が少数派であるのなら、貸金業規正法などでミクロに対処したほうが効率が良いと思うのだが。

*1:念のために書くが、一般論として、である。個別の事情は色々あろう。

*2:ただし、全ての逆選択のケースで望ましい結果が得られるとは限らない。もし唯一の均衡金利よりも低い金利に上限金利を設定した場合、全ての貸借が消滅するという最悪の結果を招く。逆に、パラメーター(借り手の分布など)次第では、上限金利を設定することでより低金利の均衡へと移動することが出来る(複数均衡が存在するケース)。…筆者の理解が正しければ、だが。

*3:厳密には、既に5年ほど前に一度上限金利が40%から30%に引き下げられているため、今の金利が「市場で自由に決定された金利」だとは言い難いのだが。

*4:念のために書くが、筆者は上限金利規制が成功したと思っているわけではない。現時点ではそれを判断する材料が決定的に不足していると思っているわけである。

生産性と賃金のあれこれ:追記

前回のエントリーの最初で、お二方の議論がすれ違っている、と書いたのだが、あまり議論の中身には立ち入らなかった。限界生産性の話を書くので精一杯だったのと同時に、あまり議論に首を突っ込むと取って食われそうで怖くて避けていたのだが、どうやら議論も収束したようなのでもう少し詳しく議論の中身を見てみたい。

平均生産性と賃金格差

まず、発端になった山形氏のエントリーなのだが、『所得水準は、社会の平均的な〜』という小見出しのところに書いてあるように、「ある産業で生産性が上昇すると、彼らの賃金が上昇し、消費も増えるので、その結果他の産業でも賃金が上がる」という理屈が肝になっている。この際、産業間の労働者の移動(転職)が全く考慮されていない点が特徴だ。これを前回の数式で表すと、

A_b f^\prime(L_b) = \frac{w_b}{p_b}

まず床屋(b)*1の生産性A_bが上昇する。労働力の移動は起こらないのでL_bは変わらず、よってf^\prime(L_b)も変化しない。こうして左辺が増加するので、右辺の実質賃金も増加することになる。このとき、生産性の向上に伴って床屋の生産量は増えているので、床屋の価格p_bは低下し*2、床屋の賃金w_bは恐らく上昇する。


前回書いたとおり、労働者にとっての実質賃金(実質所得)は「その賃金でどれだけの消費が出来るか」を示す\frac{w_c}{\frac{1}{2}p_b + \frac{1}{2}p_c(分母はいわゆる消費者物価=平均価格)で決まる。よって、床屋の生産性上昇は床屋の価格p_bの低下を通じて、コーヒー屋の実質賃金を上昇させる。


同時に、床屋の所得が増えたことでコーヒーに対する需要が増大する。ところが、コーヒーの生産量は変化しないので(L_cが変わらないため)、需要の増加はコーヒー価格p_cの上昇につながる。*3すると、

A_c f^\prime(L_c) = \frac{w_c}{p_c}

の式から、コーヒー屋の賃金w_cも上昇することになる。*4


このように、山形氏の主張は決して間違っているわけではない。ある産業の生産性向上が他産業の賃金に影響を及ぼすことはありうる。では山形氏の議論には問題がないか、というとそういうわけではない。問題点は3つ。


まず、平均的・絶対的生産性とは何かという定義を明確にしていないこと。筆者には「絶対的な生産性」が何を意味しているのか未だに理解できない。後で述べるようにこの点が議論を錯綜させた一因になっているようにも見えるのだが、筆者の知る限り最後までお二方の間で言葉の定義についてちゃんとした確認がされなかったのは残念な話である。


もうひとつは、何の説明もなく産業間の労働力の移動(転職)がないものと仮定していること。国内での労働力の移動が比較的自由に行われ、一方で国境を越えた労働力の移動は困難であると考えれば、日本のサービス業の賃金が高いことは簡単に説明できる(前回のエントリーで書いたとおり)。上で説明したとおり「生産性の高い企業の所得が増える→他産業の売り上げが増える→他産業の賃金増」という関係は「起こり得る」というだけのことで、前回説明した「労働力の移動が自由なら賃金は等しくなる」という関係に比べて著しく弱い。直感的にも理論的にも、労働力の移動を無視して議論をする理由は見当たらない。


最後に、賃金に影響を与える生産性以外の要素があることを説明しながら、何の説明もなく「生産性の向上が(所得や価格の変化を通じて)他産業の賃金に与える影響のほうが大きい」と言ってしまっていること。「メカニズムが存在する」ことと、「そのメカニズムこそが日本のサービス業の賃金が高い主な理由である」こととは全く違う問題であり、それなりに慎重な説明が求められる(そもそも、もし氏の主張するとおり、製造業の生産性向上が所得増を通じて他産業に伝播する効果が大きいのなら、製造業の賃金は他産業に比べてずっと高くなければおかしい)。もちろん、自説としてそのようなアイデアを唱えるのは構わないのだが、それがあたかも経済学における定説であるかのように語るのは余り感心しない。

限界生産力と賃金の関係

さて、一方で池田氏の反論についてなのだが、こちらも反論としてはあまり適切では無いように思われる。前回説明したとおり、限界生産力(限界生産性)=実質賃金(限界生産力と限界生産性は同じものだが、前回説明したとおり一般的な用語としての生産性とは全く違う概念である。混同を避けるため、以下では限界生産力で統一する。)、という関係は「人手不足だと賃金が上がる」という関係をあらわしたものだ(数式が苦手な方は、こちらのエントリーを読まれると良い)。つまり、「賃金は平均的な生産性で決まるのではない。賃金は限界生産力と一致するのだ」という氏の主張を意地悪く書き換えると、「賃金は平均的な生産性で決まるのではない。賃金は人手不足のときに上がり、人が余っていれば下がるのだ」ということになる。文章として何かおかしいということがお分かりいただけるだろうか。


もう少し詳しく書いてみる。前回と同じく、床屋の生産性A_bが急に上昇したとしよう。そうすると床屋は人手不足になるので賃金が上がり、高い賃金を求めてコーヒー屋から床屋に転職する人が出てくる。そうすると床屋の雇用者数L_bは増加し、コーヒー屋の雇用者数L_cは減少する。これによって、床屋の限界生産力は低下し、逆にコーヒー屋の限界生産力は増加する。上の式から、これは床屋の実質賃金が低下し、一方でコーヒー屋の実質賃金が上がることを意味する。このとき、コーヒーの生産量は減少しているのでコーヒーの価格p_cは上昇する。*5 よって、コーヒー屋の賃金w_bは上昇する。


つまり、平均生産性を\frac{A_b+A_c}{2}と定義するなら、「平均生産性が上昇すると(生産性があがっていない産業の)賃金が上がる」ということは、限界生産力=実質賃金、という関係とは矛盾しないのだ。「限界生産力と賃金は一致する」という理由で山形氏の議論に反論するのは不適切であるということがこれでわかる。前回も書いたとおり、賃金は需要と供給で決まる。限界生産力=賃金、という関係は労働需要がどのように決まるかを示す式に過ぎず、これだけでは賃金は決まらないのである。逆に言えば、どんな賃金水準であろうと「限界生産力=賃金」の式で説明することは可能だ、ということでもある。


ちなみに、ここでいう平均生産性には別の定義がある。限界生産力に対応する平均生産力とでもいうべきもので、\frac{Af(L)}{L}で定義される。もし平均生産力=賃金、という人がいるならそれは問答無用で間違っている。もしかしたらその辺りがお二方のすれ違いの始まりだったのかもしれない。

脚注

*1:前回は大文字Bを使ったが、見づらかったので小文字に変更する

*2:厳密には、この価格は消費者の需要関数と企業の供給関数の交点で決まり、必ずしもp_bが低下するとは限らない。ここでは簡略化のためにそう仮定しておく。

*3:正確には、コーヒーの価格が床屋の価格よりも相対的に高くなる、である。床屋の価格が十分に下がるなら、必ずしもコーヒーの価格が上がる必要はない。この手のモデルでは相対価格が決定されるだけなので、実際の価格がどう動くかは分からないのだ。同じことが実質賃金にもいえる(あれは賃金の相対価格なのである)。だから、『床屋の賃金は恐らく上昇する』という微妙な表現になっている。

*4:つまり、p_cが上がらない場合は、コーヒー屋の賃金w_cは変化しない。われわれは、ある産業の生産性の向上が他産業の実質所得\frac{w_c}{\frac{1}{2}p_b + \frac{1}{2}p_cに影響を与えることは断言できるが、(名目)賃金w_cが上昇するとは必ずしも言えないのである。ただし、比較的多くのケースでp_cは上昇すると思うが。

*5:厳密には、床屋の価格が大暴落してコーヒーの価格もわずかに下がる、という可能性もある。この場合、コーヒー屋の賃金が上がる代わりに床屋の賃金が下がる。どちらにせよ、床屋とコーヒー屋の賃金は必ず一致するのだが、賃金が上がるかどうかは厳密には分からないのである。理論上は、生産性が向上した結果全ての産業の賃金が下がるということすらあり得る。ただし、この場合物価も同時に低下し、かつ為替レートも大幅に円高になるため、実質的には日本人の生活にはなんら変化はない。つまり、(名目)賃金という表面上の価値がどうなるかを考えることにはそれほど意味がない、とも言える。